米コンピ『イエスタデイ・ワンス・モア』解説

1985年にリリースされた2枚組のコンピレーション・アルバム『イエスタデイ・ワンス・モア』 は、1998年に2曲が追加されアメリカで再リリースされました。
再リリースの際、ビルボード誌等でお馴染みの音楽評論家であり、リチャード・カーペンターとも親しいポール・グレイン氏がライナーノーツを書きました。
90年代半ばから2003年まで、私は年に1-2度カリフォルニアを訪れる機会に恵まれ、直接ポール・グレイン氏と話したことが幾度かありました。その際、このライナーノーツを訳して公開していいかをご承諾いただきました。

「イエスタデイ・ワンス・モア」
感情に強くアピールし、ドラマチックで、どこか驚きがある—-当初からカーペンターズは素晴らしいシングルを作り出す要素を理解していた。
だからこそ、カレンとリチャードは7190年代のポップス界で、最高の打率を誇る一員だった。1970年の「遥かなる影」から1976年の「見つめあう 恋」まで、トップ20以内を逃すことはなかった。ジョエル・ホイットバーン著の権威ある『トップ・ポップ・シングルズ』によれば、カーペンターズは70年 代のアメリカにおけるナンバーワン・ヒットメイカーであったとされる。しかしカレンとリチャードの成功は、アメリカの地だけに留まらなかった。彼らはオラ ンダから香港までのチャートを制覇した。
カーペンターズとしてのレコーディングは13年間にすぎないが、カレンとリチャードは深く末変わらぬインパクトをもたらした。彼らのヒットを集めた編集 アルバムは、1990年イギリスのチャート首位に連続7週間輝いた。日本でも類似したベスト・アルバムが1996年にベストセラーとなった。
若いオルタナティブ系アーティストがカーペンターズの曲をカバーしたアルバム『イフ・アイ・ワー・ア・カーペンター』も、1994年のヒット作となった。ふたりの作品は、最近では例えば『ボーイズ・オン・ザ・サイド/ Boys On The Side』や『?/Tommy Boy』等の映画に取り上げられ、KDラング、ソニック・ユース、ルーサー・ヴァンドロス、シャナイア・トウエインなどの多彩なアーティストが、カーペンターズのファンであることを明言している。
カレンとリチャードがイケてるとかファッショナブルだと思われたことはなかった。しかし、ファッションは流行り廃りがあるが、カーペンターズの音楽は持 ち堪えたばかりか、偉業を成し遂げるに成長した。彼らの作品は定番となり、彼らのサウンドはタイムレス(時代を超えたもの)になった。
カレン・カーペンターは1983年、32歳で亡くなった。しかし、彼女とリチャードが生み出した音楽は生きながらえた。

偉大なシンガーに必要な資質のチェックリストを作ったなら、カレン・カーペンターはその全てを有していたことだろう—-揺るぎない存在感、自然で会話の如きさり気なさ、そして完全無欠の音程と抑揚。
しかしチェックリストとて、カレンが歌に込めた情感のすべてを捉えることはできない。カレンは歌の表層を剥ぎ取り、芯を突くというとてつもない才能を 持っていた。ひとたび彼女が本質の核心に到達したなら、彼女はあなただけのために歌うかのようにその曲を語った。カレンの死後、A&Mの共同創設 者であるハーブ・アルパートはインタビューで、1969年初頭にカレンの声をデモ・テープで初めて聞いた時のことを思い出した。「歌声が僕に飛びかかって きた。まるで彼女が同じ部屋にいるかのようだった」と彼は語った。そう感じたのはアルパートひとりではなかった。カレンの声の中にある親近感は、世界中の 何百万というファンと一対一の絆を築くことを可能にした。
1974年ローリング・ストーン誌のカーペンターズのカバーストーリーで、トム・ノーランはカレンの声の音色についてを「分別のある若さ、暖かさにあふ れた冷たいまでの完璧さという、魅惑的なコントラスト」と評した。カレンの声が持つ暖かさは本物だ。そして彼女が時折見せた思慕も、傷つき易さも。こう いった資質がカーペンターズのハッピーな歌に幅をもたせ、悲しい曲を更に感動的なものにした。
自然で、肩の力を抜いたカレンのスタイルは天性のように見えた。悲しいかな、そのさり気なさ故に、当たり前に思われてしまうことがしばしばあった。しかし幸運なことに、カレンの死後は、彼女が最も才能のあるポップ・シンガーの一人であるという認識が高まっていった。

カーペンターズの主任建築士であるリチャード・カーペンターは、ふたりがレコーディングしたほとんどの曲をアレンジし、オーケストレイションした。その 大半をプロデュースし、多くを作曲し、数曲を除き全ての曲でキーボードを演奏した。彼はまた、有名なオーバーダビングによるハーモニーを生み出した。
リチャードは、「遥かなる影」や「スーパースター」、「シング」などカーペンターズの決定版ヒットに貢献したことが認められ、そのアレンジでグラミー賞に5回ノミネートされた。
彼はスタジオ・ワークに加え、カーペンターズ用の楽曲を見つけることも担った。ハリウッドのヒット映画からテレビ・コマーシャルまで、幅広いところから 未来のヒット曲を見つけていった。リチャードはまた、作詞家のジョン・ベティスと組み、カーペンターズのシングルを6曲書いた。そのうちの「愛にさよなら を」「イエスタデイ・ワンス・モア」「トップ・オブ・ザ・ワールド」「オンリー・イエスタデイ」の4曲がアメリカとイギリスの両国でトップ10に入った。
『シングルズ1969-1973』のローリング・ストーン誌のレビューの中で、評論家のポール・ガンバチーニ(?)は、カーペンターズの成功におけるリ チャードの役割をこう記した。「ふたりのヒットを聞けば、リチャードが伊達にエール大学で音楽を学んでいないことが証明される。彼のクリーンなアレンジや デリケートなピアノ、地味に配したストリングスは、ほとんどの曲を際だたせる。数曲も聞けば、彼の貢献がひどく過小評価されていることは明白だ」

Disc 1
リチャードとジョン・ベティスは70年代初頭のノスタルジア・ブームのアンサーソングとして「イエスタデイ・ワンス・モア」を書いた。思い出にふける内 容のバラッドは、アルバム『ナウ&ゼン』のオールディーズ・メドレーの前振りであり、1973年の夏にヒット。全米、全英、共に最高第2位で、ゴールド・ レコードを獲得。日本での活躍は更にめざましく、この曲は空前のベストセラー・シングルになった。

カーペンターズのヴァージョンの「遥かなる影」が晴れの日の海岸であったなら、彼らの「スーパースター」は冷たく暗い夜だ。カレンとリチャードが 1971年に録音した、レオン・ラッセル/ボニー・ブラムレット作のバラッドは、おそらく最も広く賞賛された彼らの作品であろう。カレンのハスキーな ヴォーカルからはパワーが発散され、リチャードの脳裏に焼きつくアレンジは、堪え忍ぶことの寒気のするような感覚を作り出す。ジョー・オズボーンのベース がドラマをよりいっそうもり立てる。この曲は1970年ジョー・コッカーのアルバム『マッド・ドッグス・アンド・イングリッシュメン』で、リタ・クーリッ ジが最初に有名にした。それ以来、ルーサー・ヴァンドロッスやソニック・ユースなど、様々なアーティストに取り上げられてきたが、カーペンターズのヴァー ジョンに勝るものは未だない。

喜びにあふれる「愛のプレリュード」を書いたポール・ウイリアムスとロジャー・ニコルスは、もの悲しい「雨の日と月曜日は」も制作した。これは感情を最 も赤裸々に表現したポップ・ヒットのひとつである。1971年にレコーディングされたこの曲は、カーペンターズの傑作のひとつに数えられる。まるで話しか けているかのようなオープニングから焼けつくようなフィニッシュまで、カレンのブルージーなヴォーカルは、抑制を絵に描いたようなものだ。ボブ・メッセン ジャーのサックス・ソロは、ジャズっぽい洗練された雰囲気を醸し出す。「雨の日と月曜日は」は、アルバム『カーペンターズ』のオープニング曲であり、ベス ト・ポップ・パフォーマンス・グループとしてカレンとリチャードに連続2枚目のグラミー賞をもたらした。

「バック・イン・マイ・ライフ」は、カレンが存命中にリリースされた最期のアルバム『メイド・イン・アメリカ』に収録された、最も痛快な曲だ。活気あふ れるシャッフルに、驚くほど凝ったヴォーカル・アレンジがフィーチュアされている。この曲の最後は、他のカーペンターズのどのシングルよりも厚くハーモ ニーのオーバーダブがほどこされている。A&Mレコードに所属したカーペンターズの次に成功を納めたデュオのキャプテン&テニールの男性、ダリ ル・ドラゴンが、ここではシンセサイザーのプログラミングを手伝っている。

1965年、ビートルズの「涙の乗車券」がナンバーワンになった時、カレンとリチャードはダウニーで暮らす10代の若者だった。その9年後、ポール・ マッカートニーからレコーディング・セッションに立ち寄るよう招待された時、彼らは世界で最もホットなレコーディング・グループとなっていた。マッカート ニーはアメリカからの客人を、彼らのナンバーワン・ヒットの「トップ・オブ・ザ・ワールド」を数小節歌いながら出迎えた。カーペンターズのヴァージョンの 「涙の乗車券」は、1970年2月にビルボード誌チャートの下位に到達しただけで、3月にはチャートから外れたが、同年4月10日のビートルズ解散宣言を 受けて、力強く返り咲いた。カレンとリチャードがもの取り上げ、悲しく仕立てた人気者4人組のその曲は、失望したビートルマニア達のムードにぴったりだっ たのだろう。リチャードのアレンジは最も独創的なものの部類に入る。バロック調のピアノのイントロは、ビートルズの曲を聴いていることに気づいた時の驚き を、よりいっそう大きなものにする。

「愛にさよならを」におけるトニー・ペルーソのファズ・ギター・ソロは、72年の夏に多くから注目をされる一方、「ハードロック」に染まったことを非難 する保守的イージーリスニング・ファンの怒りの手紙をカーペンターズにもたらした。長々と続くギターとヴォーカルの最後の部分は、「ヘイ、ジュード」の報 われぬラブ・ソング版といった趣で、「愛にさよならを」に叙情的な資質を与えた。この虚ろなバラッドはカーペンター/ベティスによる初のシングルだった。 カーペンターズがリリースした最初の一ダースのヒットの中で、カレンが大好きな曲だった。

1971年のカーペンターズには素晴らしい曲を豊富にあり、「動物と子供達の詩」は「スーパースターの」B面に甘んじた。それにもかかわらず、この曲は 1971年12月にチャートにランクされた。スタンリー・クレイマー監督の映画の主題歌であるバラッドで、カレンはやさしさと強さの両面を表現した。 1972年4月に放映されたアカデミー賞授賞式で、カーペンターズはオスカーにノミネートされたこの曲を披露した。バリー・デヴォルゾンとペリー・ボトキ ン・ジュニアは、1976年に「ナディア・コマネチのテーマ」をヒットさせた作者でもある。このインストゥルメンタル曲は、当初『動物と子供達の詩』の中 で、「コットン・ドリーム」というタイトルで発表されていた。

カーペンターズがスタイリッシュに仕上げたキャロル・キングとトニ・スターンの「小さな愛の願い」は、キングが自らのアルバム『ミュージック』でこの曲 を紹介した4ヶ月後に発表した。シンガー・ソングライターである彼女は、カーペンターズの作品に寛大な言葉をおくった。「私のヴァージョンがデモのように 聞こえます!」と。小気味よいメロディのシングルではあったが、ゴールド・レコードに輝いたそれまでのカーペンターズの6曲のヒットのような個性には欠け た。リチャードは今、この曲を”ナイスなアルバム曲”のままにしておけばよかったと—-それが適切だったと思っている。

60年代のスマッシュ・ヒットをリメイクし、シングルとしてリリースした3枚目の曲が「見つめあう恋」だ。「涙の乗車券」の独創性や、「プリーズ・ミス ター・ポストマン」の新鮮味には欠けたが、「見つめあう恋」は文字通り”世界中で”ヒットした。この陽気な歌は1967年ハーマンズ・ハーミッツのヒット であり、ニュー・ヴォードヴィル・バンドが1966年のアルバム『ウインチェスター・カテドラル』で発表したものだった。

1978年「スウィート・スマイル」がカントリーのトップ10ヒットになったことは、カレンとリチャードにはうれしい驚きだった。カレンの弾けるよう で、何気ないアプローチはスクエア・ダンス調のこの曲に最適だ。フィドル、バンジョー、タック・ピアノをフィーチュアしたリチャードのアレンジは、懐かし きカントリー・ジャム的な精神を感じさせる。この曲を共同で作ったジュース・ニュートンは、80年代に一連のヒットを録音していった。

「愛は夢の中に」はアルバム『ア・ソング・フォー・ユー』の中で発表されてから2年の月日が過ぎようとしていたが、ポール・ウイリアムス/ロジャー・ニ コルス作によるこのシングルは、1974年春のビッグ・ヒットとなった。胸に訴えるポップス賛美歌は、カレンのスタイルと人格にぴったりだった。ここにあ るクオリティは、ヒットの量(クオンティティ)ということでないとしても、70年代前半のカーペンターズとウィリアムス/ニコルスのコンビネーションが、 60年代のディオンヌ・ワーウィックとバカラック/デヴィッドのそれに匹敵することを再び証明している。

「愛のプレリュード」に続き、カーペンターズはもう一曲「ふたりの誓い」というウェディング・ソングをもってきた。しかしそこには決定的な違いがあっ た。「愛のプレリュード」がロマンチックな確信を表現したなら、「ふたりの誓い」は深い感情の交差を伝える。カレンはそこにある深い愛情と疑問の両方をお さえている。リチャードが書いた下降するベースラインは、流れるような演奏が特徴のジョー・オズボーンが演奏した。カーペンターズのこのシングルは、映画 『ラヴアーズ・アンド・アザー・ストレンジャーズ』が1970年度のアカデミー賞最優秀主題歌賞に輝いた1971年4月にトップ10入りした。

カレンとリチャードは981年の官能的なバラッド「タッチ・ミー」で、長期に及んだ亀裂に終止符を打った。トム・スコットのテナーサックスをフィーチュ アしたメローなシングルで、カーペンターズはトップ20に返り咲いた。この曲はまた、カーペンターズにとって15枚目(そして最後)のアダルト・コンテン ポラリーでのナンバーワン・ヒットとなった。5年後、アラバマがこの曲を取り上げ、カントリー・チャートで第一位となった。

クラトゥの「星空への旅立ち(コーリング・オキュパンツ)」を無謀にも壮大に取り上げた際、カーペンターズは最も想像的な仕事をした。この予算オーバー 作品には160人のミュージシャンやシンガーを集め、1977年の冒険的アルバム『パッセージ』の目玉作品となった。その当時、宇宙のファンタジーは頭の いい思いつきだったかもしれないが、今はそれが途方もなく奇抜なポップス・ショーのように見える。面白いのは、普段は控えめな演奏が、完全に突出して聞こ えるところだ。長年のサイエンス・フィクション・ファンであるリチャードは、故ピーター・ナイトと組み、この曲をアレンジした。彼らの試みは1978年初 頭、グラミー賞ノミネートで報いられている。

Disc Two

カーペンターズが『パッセージ』で発表した「想い出にさよなら」は、”夢”のサウンドトラックになるだろう。リチャードのアレンジは親近感あふれるオー プニングから熱烈なクレッシェンドへと盛り上がる。ピーター・ナイトのオーケストレーションは絶妙なクオリティをもたらし、そこをトニー・ペルーソのエレ クトリック・ギター・ソロが突き刺す。いかし表面で何が起きていようと、水面下にはカレンがやさしく感情に訴えるバラッドがある。カーペンターズはシング ル化しなかったが、アン・マレーが取りあげ1979年に大ヒットさせた。この曲を書いた中の二人、スティーブ・ドーフとラリー・ハーブストリットはその後 再びチームを組み、1979年のカレンのソロ・アルバムのハイライト曲のひとつである「イフ・アイ・ハド・ユー」を提供した。

1976年のジョージ・ベンソンの「マスカレード」が最大のヒット・ヴァージョンではあるが、この曲の決定版は1973年のアルバム『ナウ&ゼン』用に カーペンターズがレコーディングしたヴァージョンであると考える者が多い。レオン・ラッセルのクラッシーなバラッドは、カレンとリチャードから最も洗練さ れた演奏のひとつを引き出した。カレンの暖かみあるヴォーカルは、クールなジャズ調の細やかさを相殺する。このバラッドはまた、カレンの独創的な抑揚をつ ける才能を見せつける。例えば、「the words got in the way/いつも言葉につまって」という歌詞の中の2単語を抓ることにより、その状況の不毛を深く悟らせる。この曲は、「スーパースター」「ア・ソング・ フォー・ユー」に続く、カーペンターズによる3曲目のラッセル作品だ。カーペンターズは「マスカレード」をシングル・リリースしなかったが、リチャードは それを失策だったかもしれないと今は考えている(4分5秒もあるこの曲をポップ・ラジオ用には長すぎると彼は思ったのだが)。しかし彼らはこの曲を「プ リーズ・ミスター・ポストマン」のB面にフィーチュアして有効利用した。

「ハーティング・イーチ・アザー」はカーペンターズのシングルで最も短い(2分47秒の)曲ではあるが、ダイナミック・レンジが大きい。カレンとピアノ だけの寒々としたオープニングから、ティンパニと共に鳴る高らかなコーラスのくり返しへとシングルは盛り上がっていく—-そのプロセスをくり返し、曲 はフェードする。1960年代のリトル・アンソニー&ザ・インペリアルズの過度にエモーショナルな作品をモデルに、リチャードはこの曲を作った。「ハー ティング・イーチ・アザー」は1972年2月カーペンターズ連続6枚目のゴールド・レコードとなり、1969年のルビー&ザ・ロマンティックスの曲を焼き 直したものだった。カレンとリチャードは他にも1963年発表の「アワ・デイ・ウィル・カム」や、1965年の「ユア・ベイビー」の2曲ほど、この4人組 R&Bグループの作品を取りあげている。

1974年までに、カーペンターズは歌詞に駆り立てられるバラッドを得意とすることで知られるようになった。そして「プリーズ・ミスター・ポストマン」 では、リズムをベースとするオールディーズも”配達”できることを証明した。ピンと張りつめ推進力のあるリチャードのアレンジは、マーヴェレッツの定番曲 を現代風にすることを助け、カレンのおどけながらいじけるところや、元気のいいドラミングは、そこによりいっそうの魅力を添える。1975年2月、このシ ングルはふたりにとって10枚目のゴールド・レコードとなり、アメリカではチャート首位を、イギリスでは最高第2位を記録した。加えて、それまでカーペン ターズの魔法にかかっていなかった幾つかの国々でも、この曲はヒットした。その結果、この曲は空前のトップセラー・インターナショナル・ヒットとなった。

「青春の輝き」はカーペンターズ・ヒットの中でカレンが最も気に入っていた曲だった。リチャードとジョン・ベティスが、アルバート・ハモンドと共に作っ た、内証的なバラッドだ。カレンが幻滅と希望の間に揺れる1976年リリースのこの曲は、「モア、モア、モア」が流行った時代の「ザ・ウィー・スモール・ アワーズ」というところ。賛美歌にも似た響きはコーラスとハープでアクセントがつけられ、心を癒す重要性を持つカレンの深夜の気づきをバックで支える。こ のバラッドは日本で1995年に『青春の輝き~ベスト・オブ・カーペンターズ』の発表と同時に再リリースされた。アルバム同様、シングルもスマッシュ・ ヒットとなった。

カレンが最初に「遠い初恋」をレコーディングしたのは、フィル・ラモーンのプロデュースによる1979年のソロ・アルバム用だった。カーペンターズが 『メイド・イン・アメリカ』用に新たにこの曲をレコーディングしたのは1980年のことだった。そのアルバムには結局収録されなかったが、リチャードはこ の曲を1983年に『ヴォイス・オブ・ザ・ハート』の第一弾シングルとしてリリースし、アダルトコンテンポラリーのトップ10ヒットとなった。

活気あふれる1977年のシングル「ふたりのラヴ・ソング」は、ビッグバンド、ラテン、ダンス・ミュージックといった影響が見られる。リチャードのプロ ダクションはつややかで確信に充ち、カレンのヴォーカルは暖かく魅惑的だ。耳に甘く拒みがたいこの曲でテナーサックス・ソロを演奏するのは、トム・スコッ トだ。

「トップ・オブ・ザ・ワールド」はあわや逃しかかった第一位のスマッシュ・ヒットだ。リチャードとジョン・ベティスは1972年『ア・ソング・フォー・ ユー』のアルバム用にこの軽快な曲を書いたが、A&Mとカーペンターズ関係者はシングルには力不足という意見で一致した。カレンとリチャードが次 のアルバムに取りかかり始めると、リン・アンダーソンがこの曲をカバーして間もなくカントリー・ヒット第二位に輝いた。その他にも、カーペンターズがこの 曲を過小評価していた信号は出ていた。例えばラジオ局ではリクエストのみでこの曲がプレイリストに入ったし、日本ではゴールド・レコードになった。カーペ ンターズはようやくその意を組み、『シングルズ1969-73』のリリースにあわせ、再録音したものを売り出した。このスマッシュは第一位に輝き、 1973年12月にはゴールド・レコードに認定された。『シングルズ』はアメリカ、イギリス両国でナンバーワンとなり、イギリスでは17週間もその地位に とどまった。

「ウエディング・ソング」は1980年に行われたトム・ブリスとカレンの結婚式用に、リチャードとジョン・ベティスが書き下ろした。結婚は長続きしな かったが、この曲は結婚式で好まれる曲になった。長い歌詞と”グリーク・コーラス”、壮大な旋律の鳴り響くさまは、まるでブロードウェイ・ミュージカルの 黄金時代に書かれた作品のようだ。カレンにしても、最も挑戦しがいのあるヴォーカル・アレンジだった。彼女はキャラクターや、ムードや、テンポを変えなが ら、ワイド・スクリーンの懐かしきMGMミュージカルの絢爛さをこだまする大きなフィニッシュへ組み立てていく。ピーター・ナイトがレコーディングのオー ケストレイションを担当し、1981年「タッチ・ミー」のB面としてこの曲は発表された

「愛のプレリュード」はあれよという間にカーペンターズの定番ソングとして「遥かなる影」を押しのけた—-小さな足ではない。牧歌的なバラッドであ れば容易に素敵だと思えるが、カーペンターズはそこに血と肉を与えた。カレンのリード・ヴォーカルは力強さと、楽観と、深い満足感を伝え、リチャードのア レンジはイージー・リスニングのロマンチシズムにポップ/ロックの鼓動をブレンドする。リチャードはポール・ウイリアムス/ロジャー・ニコルス作のこの曲 を、ロサンゼルスのテレビで見つけた—-それは銀行のコマーシャル・ソングだった。カーペンターズの作品は、ジングルをスタンダード・ナンバーにし た。グラミーの年間最優秀楽曲賞にノミネートされたこの曲は、世代のウェディング・ソングとして親しまれるようになった。

「遠い想い出」でリチャードとジョン・ベティスは、自らの2曲のビッグ・ヒットから、「イエスタデイ・ワンス・モア」のテーマであるノスタルジアと、 「トップ・オブ・ザ・ワールド」のカントリー調の心地よさを融合させた。その結果、彼らが最も伝統を重んじたアルバム『メイド・イン・アメリカ』の中で、 もっとも伝統的なエントリーとなった。

カレンの歌声にある思慕の情は、「シング」のようなハッピーな曲にさえ出くわした。それはチャールズ・チャップリンのテーマソング「スマイル」がそうで あったように、セサミ・ストリートの”いっしょに歌いましょう”という曲に甘くもほろ苦い味を与えた。バーブラ・ストライサンドのマイナーなヒット曲だっ た「シング」をカレンとリチャードが初めて聞いたのは、1973年1月のテレビ・スペシャルのセットでのことだった。2月下旬までに彼らのヴァージョンは チャートを勢いよく駆け上がり、「シング」はカーペンターズの7枚目のゴールド・シングルとなり、グラミーの”デュオ、グループ、またはコーラスによる最 優秀ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞”にノミネートされた。

「オンリー・イエスタデイ」は二曲が一曲にまとまったもので、孤独が胸を刺すオープニングの歌詞が分厚いオーケストラとアップテンポのコーラスに道を譲っていく。このなめらかなシングルは1975年5月、カーペンターズ12枚目にして最後のトップ10ヒットとなった。

1969年後半、バート・バカラックはカーペンターズの「涙の乗車券」を聞き賞賛し、来るチャリティ・コンサートでバカラック作品のメドレーを演奏して ほしいと頼んだ。カレンとリチャードをA&Mレコードと契約したハーブ・アルパートは、ディオンヌ・ワーウイックやダスティ・スプリングフィール ドが取りあげてもヒットすることのなかった「遥かなる影」を取りあげてはどうかと示唆した。リチャードはメドレーにはこの曲が合わないと思ったが、アル パートはカーペンターズにぴったりの曲だと考えた。彼は次のアルバムにこの曲を録音するようカレンとリチャードにしきりに勧めた。アルパートには考えが あった。カーペンターズの軽いタッチの「遥かなる影」は、ロマンチックなシュークリームにもってこいだった。カレンのリード・ヴォーカルは魅力的にコケ ティッシュで、リチャードはスロー・シャッフルのアレンジに、暖かな音色のトランペット・ソロと、とろけそうなカリフォルニア・ハーモニーをフィーチュア した。1964年ワーウィックのレコーディング用にこの曲をアレンジしたバカラックは、感激した。「リチャード・カーペンターは曲の核心をとらえた。僕は 完敗だ」とポップの巨匠は語る。事実は如実に物語る。過去40年間にカバーされた数百というバカラック作品の中で、ナンバーワンに輝いたのはこの曲しかな い。「遥かなる影」は年間最優秀新人賞と、グループによる差し優秀コンテンポラリー・ヴォーカル・パフォーマンス賞という2つのグラミー賞をカーペンター ズにもたらした。

1998年6月 ポール・グレイン